2015年6月16日「心配無用」
私が何らかの理由でポックリ死んで、
遺族が葬式、してみようかな?と思った場合、
私の遺志とは無関係に葬式が開かれてしまうのですが、
そうすると、生前たいした縁も無かった方々が集まって、
矢野純さんって、はて、どんな人だったかな。
そういえば矢野さんってアレでしたよね。
と、知ったようなクチをきいて
死人にクチ無しとばかりに、
私の遺体の廻りで侮辱の限りを尽くすのです。
そんな葬式が、イヤでイヤでたまりません。
矢野純個人に限っては、
「葬式無用、戒名不用」と白洲次郎のように宣言したい!
白洲次郎さんって、はて、誰でしたっけ。
そのようにありますから、墓石もまったく欲しくありません。
御影石の直方体を前にして、
矢野純さんの"人となり"をしみじみ思い出せるとしたら
それは大変な特技だと言えます。
私は墓石を見ても故人の事はあんまり思い出せません。
それよりも、写真を見たり、
故人が生前書いたものを読んだほうが いろんな事を思い出せます。
瓦版は私の墓だと思っています。
矢野純さんって、はて、どんな人だったかなと言うと、
もう瓦版に、25歳から死ぬその日の朝までの、
私の書いた文章や絵が、すべて残っています。
御影石の直方体や古墳、
ピラミッドまで出向かなくても私の事を思い出せます。
25歳の頃から、私のお墓をコツコツ作り続けているようなものです。
私が死んだ後、瓦版を観る方が独りも居なくなった日が、
私が名実共に死ぬ日です。
もちろん、今すぐ死ぬ気などまったくありません。
ジェームス・ブラウンが好んで使った言葉にならって、
私も200歳マイナス1日まで生きますから、心配は無用です。