矢 野 純 T O D A Y 瓦 版

生い立ち


2016年2月11日 撮影

0歳(1972年) 宮崎県延岡市で生まれました。


3歳(1975年) 運賃値上げ法案に疑問を持って母に質問しました。

  テレビで国鉄の運賃値上げ法案のニュースが流れていました。

  それを聞いて私は、
  
    うんちは根っこ(である肛門)から出る(下がる)ものなのに、

    うんちが根っこから上がる(押し込む)と言っている。

    うんちが体の中を逆流するのではないか。

  と思い母に、

    運賃値上げ法案とは何か

  と質問しました。

  私の中にある最も古い記憶です。


4歳(1976年) 兄から殴られ自分の無実を理路整然と母に説明しました。

  3人兄弟の次男でよく兄から殴られ 
  
  わーんと泣いていました。(よくある光景です。)

  その時に、自分は何も悪い事をしていないのに殴られた事を
  
  母に訴えるのですが、
  
  「兄ちゃんが殴った、わーん」と泣いていては
  
  母も「またか」と思うだけなので、

  いかに自分が無実かを、理路整然と母に話さなければなりませんでした。

  次第に私は、自分の意見を非の打ち所が無い様に組み立ててから

  一撃で言う子供に育ちました。


6歳(1978年) 社会競争デビューで道を踏み外しました。

  

  幼稚園は小学校、中学校…社会人へとつながる、
  
  ある種の社会デビューだと思います。

  その競争社会のデビューで道を踏み外しました。

  幼稚園児30m走で、スタートと同時に家族の居る所へ走っていき、

  お菓子をもらいに行かず、そのまま運動会を観覧して帰りました。


12歳(1984年) 日記が「学級だより」(ガリ版)で配られました。

  小学6年生の頃の担任の安山清次先生が宅習(ノート2ページ/1日)を
  
  1年間休まず続けた者には褒美を出すと言いました。

  それにつられて宅習を始めたのですが、勉強が面倒だったので
  
  次第に日記が宅習の大部分を占めるようになりました。

  その日記を先生が褒めてくれて、ある日、
  
  私のある日の日記を学級だよりに全文掲載して
  
  クラスの各家庭に配ってくれました。

  私の文章を褒めてくれた初めての方でした。


13歳(1985年) 君には才能があると言われて困惑しました。

  中学1年生の頃、ある日、国語の佐藤ちひろ先生から
  
    「矢野君、ちょっと」
    
  と言われました。

  学校の隅に行くと先生が、中腰になって私の目の高さに顔を下ろしてから、

    「君には才能がある。」

  と、ピクリとも笑わず真顔で言いました。

  私の半生で、一番衝撃的な出来事でした。

  確か読書感想文を出したのですが、何を書いたのか覚えていません。


  どの分野の才能だったのか、先生に確認しておかないといけなかった。


13歳(1985年) 金子君と遊びました。

  私の半生で、唯一の友達だった金子君とよく遊んでいました。

  金子君は私より10倍面白いヒトでした。


14歳(1986年) コンピュータを始めました。

  当時、最先端のコンピュータ・ソフトはゲームセンターにありました。

  学校ではゲーセン禁止だったのですが、
  
  最先端のソフトに触れたくて、よく行っていました。

  ゲームと同じ動きを再現したくて、
  
  MSXパソコンでソフトを書いていました。

  ある日、ゲーセンへ向かっていると、

  他のクラスメートが先生の家を訪問するためにバスで移動していて
  
  私がマチに居るのがバレました。

  高校3年生の時には学級委員長だったのに
  
  ゲーセンに居て担任の先生に見つかりました。

  先生は一言も声を発しませんでした。


18歳(1990年) 山形大学で1年生を2回して退学になりました。

  大学の1次試験(センター試験)で、
  
  理科と数学と国語の現代文だけ点が取れて、他は壊滅しました。

  担任の先生が各大学の合格目安の点数の載った本を読んで、

    山形大学工学部なら、もしかすると拾ってくれるかもしれない

  とアドバイスしてくれました。

  大学3つ受けてすべて落ちて、どうしようかなと思いながら
  
  メガドライブ(ゲーム機)で遊んでいたら

  山形大学から追加合格の知らせの電話が!

  山形大学の2次試験では問題文の意味すら分からず
  
  答案の何枚かは白紙で出しました。

  追加合格は先生の内申書の賜物ではないかと今も思っています。

  急に山形で独りになって新しい生活になじめず
  
  次第に学校へ行かなくなりました。

  1年生を2回して、3回目の1年生はナシという規定で退学になりました。


21歳(1993年) 金子君が亡くなりました。

  心臓の病気で医大を1日貸切にする大手術を受けて、

  その1年後に血栓が上がって脳梗塞になり亡くなりました。

  私の半生、唯一の友達でした。


22歳(1994年) 旭化成に入社しました。

  成績が良いと旭化成に入社できると評判の
  
  コンピュータの専門学校が延岡に立ちました。

  渡りに船で学校に行ったのですが、
  
  学校に入る前からコンピュータは熟知していたので、

  学校で新たに得た知識はわずかでした。

  会社に入れたのは、本当に運が良かったです。

  その学校を建てた方が入社面接してくれて、
  
  最初に配属された部署の上司でした。

    「矢野は大学レベルなのに専門学校卒入社で安かったんだ。」
    
     (安かった=コストパフォーマンスが良かった。)

    「矢野は、面接のときは完璧だったのになぁ。」

  と、後になってその方が笑いながら言っていました。


25歳(1997年) 個人サイトを実名で始めました。

  コンピュータ・プログラマーになる夢は達成できたので、

  モノ書き(作家)になる夢をかなえようと思ったのと、

  結婚相手を探そうと思って、
  
  個人サイト(矢野純TODAY瓦版)を始めました。

  「インターネットは危険だから実名を出すのはやめたほうが良い。」

  と、会う人あうヒト必ず言われました。当時の常識でした。

  他人の常識より自分の見識が大切なものですから、
  
  ずっと実名でやっています。

  今ではフェイスブックなど、実名で発言する方は珍しくなくなりました。


34歳(2006年) 発電所の見学ビデオを制作しました。

  私はコンピュータ・プログラマーで、計算機を使えるヒト、

  昔風に言うとソロバンが出来るヒトなのですが、

  何故か発電所見学者向けの導入説明映像を制作しました。

  動画の知識も何にも無かったのですが、
  
  シナリオからCGから何から何まで、
  
  ナレーションの声以外はすべて独りで作りました。

  私の作った最初で最後の動画です。


34歳(2006年) 結婚しました。

  私のサイトは当初の目的の一つを達成しました。


36歳(2008年) 大ブレイク(※休憩)しました。

  頭の具合が悪化して1年間休職しました。


37歳(2009年) スピーカー「よこい」を作りました。


40歳(2012年) 家を建てました。

  頭の具合が悪くなって急に将来の事が不安になり家を建てました。


43歳(2015年) スピーカー「がんたれ」を作りました。(2016年2月完成)


44歳(2016年) 益々盛んTシャツを作りました。


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